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丸岡 町の歴史と
丸岡ブランドをご紹介

福井県坂井市にある丸岡町は、中心市街は丸岡城の城下町として発達してきました。

丸岡ブランド

織ネーム生産日本一 全国のシェアの80%

大正4年(1915)霞町の角田広氏と内田良作氏が従来の紋テープ織機を改良し、織マーク工場を開設しました。また、その頃柳沢仙吉氏も紋べりやリボン織機を使って細巾織物を製造し始めました。これが町の基幹産業の細巾織物のスタートでした。これまでの商品の品質表示の織マークも現在ではファッションのひとつのアクセントとして需要拡大し、全国のシェアの80%を占めるまでになりました。

越前織 人物や色鮮やかな複雑な花などを再現

織ネームの産地丸岡ならではの工芸美術品「越前織」。最近は、コンピューターの性能が向上するに伴い、画像や図柄などの処理がより細かく出来るようになって、人物や色鮮やかな複雑な花などを織物で再現できるようになりました。また、高級美術織物も成功し、美人画や景勝地がデザインされた「お土産」や「カレンダー」など越前織として、販売されております。2,100円。

時間 8:00~17:00
休み 土日祝定休
問合せ先

マジックテープ 国内シェアーは日本一

丸岡工場は1988年に操業開始。面ファスナーの製造・開発を行っている.現在では環境対応型の織製面ファスナー<マジックテープ>から自動車・工業用向けの成型面ファスナー<マジロック>など多種多様な製品を生み出しています。その国内シェアーは日本一を誇っています。

時間 8:00~17:00
休み 土日祝定休
問合せ先

丸岡産米 コシヒカリ 丸岡はコシヒカリのふるさと

日本を代表する美味しい米「コシヒカリ」はこの丸岡町舟寄出身の「石墨慶一郎博士」が長年の研究の末、開発した品種です。十郷用水の清らかな水とたかむくの里の肥沃な土壌がコシヒカリの味を一層高めています。丸岡はコシヒカリのふるさとでもあり、石墨博士の功績を讃えて、たかむくのまちづくり協議会では今年も高椋小学校の児童たちによるコシヒカリと古代米による田んぼアートを作っています。今年も地域の人々と5/9に田植え、9/6に稲刈りの体験を行いました。

丸岡産 そば  ふるさと丸岡の味

丸岡産のそばは減反政策によってその耕作面積が増え、生産高が多くなり、県内トップクラスです。丸岡産のおろしそばはふるさと丸岡の味の代表するものとなっています。

なれ寿司(鳴鹿地区) 秋祭りの御馳走

身近にある植物の葉を使って、寿司飯と塩鱒の切り身を包み、軽く圧しをして一昼夜おくと、塩鱒の具と酢飯が熟れてとてもおいしくなってきます。これが「祭の寿司」です。 鳴鹿地区では、大きくて毒がなく酢にも変色しないアブラギリの葉で包み「塩鱒のなれ寿司」を作り、秋祭りの御馳走となっています。

丸岡地名の由来~継体天皇と丸岡~

男大迹皇子(「おほどおうじ」後の継体天皇)が、坂中井(「さかなかい」坂井郡)の麻留古乎加(「まるこのか」現在の丸岡の地)に住んで居られた時、そのお后の倭媛との間に2男2女がおられた。第2皇子が椀子(まねこ)皇子といい、皇子の御胎衣を丸岡城の乎加の南に埋めた所と言い伝えられいる。いつしか、この地は麻留は丸、乎加は丘陵の岡、つまり、丸い岡のある地、現在の丸岡の地名になった。また、この皇子の名前から「まるおか」となったという説があります。

継体天皇石像(左)
振媛想像画(右)

継体天皇「=男大迹皇子(おほどのおうじ)」

西暦507年から531年の24年間在位。第26代継体天皇として、即位されました。継体天皇は聖徳太子の曾祖父に当たります。

振媛(継体天皇の母)

西暦450年頃、応神天皇の血をひく、近江の国(滋賀県)高島宮の「彦主人王」に嫁いだのが、高向郷高田地区(現在の丸岡町高田)の振媛、皇子の誕生後、父が亡くなり、母は郷土の高田に戻って、皇子を養育、皇子は福井平野、坂井平野の治水事業に功績し、54歳で継体天皇となられました。男大迹皇子の治水事業を讃えるために、現在、福井市内の足羽山には継体天皇石像が建っています。九頭龍川の恵みによって発展した福井平野、坂井平野は先人たちの多くの苦労によって跡を感ぜずにはいられない。西方の三国方面をじっと見つめる石像は約1世紀、私たちの生活を見守っています。

みどころポイント

振媛一族の石棺

高向の宮跡

天皇堂

古代の丸岡

たかむくのあけぼの時期

高椋の私たちの地域に人々が住み着いたのはいつ頃からだろうか。古老から「舟寄地区は昔、日本海の入り江にあり、舟が出入りしたことから「舟寄」の地名がついた。」とよく聞かされた。その確かな証拠となる歴史的事実が最近の行われた県埋蔵文化財センターの発掘調査で解かった。平成16年度に九頭龍川パイプライン敷設工事の際に舟寄集落の西方から縄文中期(4,500年前)の竪穴式住居跡の舟寄遺跡が発見された。坂井平野の平坦なこの地に縄文の人々が生活をしていたことが確認された。現在の地表より約2m下からの発見でした。狩猟中心の縄文人は近くを流れる兵庫川の河岸段丘の上に集落をつくり、この地まで入り込んでいた日本海の入り江と兵庫川の水運によって、生活をしていたと考えられる。度重なる洪水による土砂の沖積が進み、次第に今日のような坂井平野化していった。平成15年度から始まった発掘調査の舟寄遺跡からは縄文中期の集落の跡が発見されました。

縄文中期(4,500年前)から発達した舟寄地区

 兵庫川の河岸段丘に大集落形成。平野部での縄文中期遺跡は全国的にも珍しい。

舟寄遺跡は、丸岡町舟寄集落の西側の水田地帯に所在していた。標高は、水田面から2m下位の約5.5mを測った。検出した主な遺構には、竪穴住居・堀立柱建物、土坑 柱穴 埋甕 捨て場などが発掘された。

竪穴住居は、18棟検出した。直径4~6m、深さ40~60cmで平面が円形や楕円形をなし、中央部には、人頭大の川原石を方形に並べた石囲炉(いろり)を設置しているものが大半を占めていた。住居内部から完全な形に土器や石器などとともに、土器の材料となる粘土が焼けた焼成粘土なども出土された。

掘立柱建物は5棟程 600基以上の柱穴が検出し、おおむね4本柱で、1間×1間の正方形または長方形であった。土杭は20基程検出し、直径1m前後で平面が円形または楕円形となるものが主であった。柱穴直径30~50cm 深さ40~60cm程度のものが主であった。埋甕は4基検出した。内部からは遺物は出土しなかった。捨て場からは1箇所検出し、縄文時代の土器や石器が多く出土した。

調査面積が少ないものの、竪穴住居などの遺構に伴い縄文時代中期の土器や石器が多量に出土し。そのほか、2cm程度の川原石を磨いて孔をあけた石製装飾品(首飾りの刃が2点出土している。自然遺物で炭化したクルミや大形動物の骨片なども小量見つかった。

舟寄遺跡は、縄文時代中期中葉~後葉にかけての比較的短時期の集落遺跡であることが判明した。また、竪穴住居などの生活遺構が多数密集していることから、調査区は集落の中心部にあたると考えられる。試堀調査の結果から、調査区の南北両方向ともに、自然河川ないし湿地と想定できるため東西方向にのびる細長い自然堤防ないし微高地上に集落が立地していたものと判断できる。検出した多数の遺構や遺物は縄文時代遺跡の発掘調査例が少ない県内において、その具体像を解明していく上でも貴重な資料となった。特に、標高の低い坂井平野において、多数の竪穴住居を明確に検出したのは初例となり、今後の整理作業により、さらに資料的価値が高まるものと考えられる。

遺跡名 舟寄遺跡
所在地 坂井市丸岡町舟寄
調査原因 国営九頭竜川下流域土地改良事業
調査期間 平成15年8月2日~平成18年3月27日
調査主体 福井県教育庁埋蔵文化財調査センター訴査担当 山本孝一
調査面積 1,400平方メートル
時代 縄文時代中期
提供 県埋蔵文化財センター

みどころポイント

舟寄白山神社内に展示してある
舟寄遺跡から出土した
縄文中期のクリの大木

縄文後期(3,000年前)の舟寄福島通遺跡

兵庫川や田島川の流域では土砂の沖積が進み、縄文後期からは人々は集落化し、水田耕作を始めていった。パイプライン敷設工事の際、縄文後期の舟寄福島通遺跡、弥生期の高柳・下安田遺跡が発見された。特に高柳・下安田遺跡からは、農耕人が祭礼に使用したとみられる銅鐸の破片(3片)が発見され、かなりの多くの弥生人がこの地で稲作中心の農業を営んでいた。

舟寄から坂井町の福島に通じる旧道(舟寄ー福島道)付近に所在し、舟寄集落と兵庫川・十郷用水を挟んだ西側の水田地帯上に広がる遺跡である。上層に古墳時代(西暦200~300年頃)と下層に縄文晩期(約2,500年前)の遺構である。縄文時代の遺構は土杭やピット(柱穴)等とともに、深鉢形の土器を地中に埋められた「甕棺」(お墓?)が10基発見された。そして、縄文時代の祭祀に使われたとみられる土製や石製の特殊な遺物が多く出土した。3,000年近く前から、縄文人たちはここで生活していたことがわかった。

遺跡名 舟寄福島通遺跡
所在地 坂井市丸岡町舟寄
調査原因 九頭竜川側下流域土地改良事業(パイプライン敷設)・工事
調査期間 平成17年5月14日~3月27日
調査主体 福井県教育庁埋蔵文化財調査センター
調査担当者 赤澤徳明
調査面積 約2,400平方メートル
時代 縄文時代晩期・弥生時代中期・後期
古墳時代前期・中期
提供 県埋蔵文化財センター 提供

みどころポイント

銅鐸が出土した高柳・下安田遺跡

高柳地区のパイプライン敷設工事の際に発見された遺跡で、高柳集落から下安田集落にまたがっている。両集落間の水田用の農道部分を中心にL字状に調査したところ、中央に南北にわたり河道があり、その両側から竪穴住居と弥生式土器・玉作関連遺物(※1)が出土した。調査は東側と西側の2つに分けて行われ、その東側からは竪穴住居2棟、布堀りの堀立柱建物2棟、2軒×3軒の堀立柱建物1棟、平地式住居1棟と若干の土杭・ピット(柱穴等)が見つかった。竪穴住居は多角形の平面形で、直径10~15mの大型のものであり、2棟とも拡張されていた。そのうちの1棟の床面から銅鐸(※2)の破片が3片出土した。

西側からは竪穴住居6棟、溝、または溝状の細長い土杭や井戸の可能性のある土杭3基が見つかった。うち1棟は多角形の平面形で、拡張して造り直されていた。まだ西側と南側にも住居があると考えられ、かなり大きな弥生時代の集落であったと思われる。、2棟とも拡張されていた。そのうちの1棟の床面から銅鐸(※2)の破片が3片出土した。

今回出土した銅鐸の破片は、金属利器として再利用された可能性が高いもので、弥生時代末期(西暦200年前後)の土器が出土 していることから、銅鐸の廃棄の時期が特定できる非常にめずらしいものです。

※1 玉作関連遺物とは弥生時代から古墳時代にお墓の副葬品となる管玉、玉
※2 銅鐸は弥生時代の祭祀に用いられた代表的な青銅器である。

遺跡名 高柳・下安田遺跡
所在地 坂井市丸岡町高柳
調査原因 九頭竜川側下流域土地改良事業(パイプライン敷設工事)
調査期間 平成16年5月8日~10月11日
調査主体 福井県教育庁埋蔵文化財調査センター
調査担当者 赤澤徳明・櫛部正典
調査面積 3750平方メートル
時代 弥生時代
提供 県埋蔵文化財センター

中世の丸岡

豊原寺の歴史

丸岡の市街地より東方約4km山麓の谷間一帯に豊原寺跡がある。この豊原寺は大宝2年(702)に泰澄大師によって開かれ、大師自らが11面観音を刻み、豊原八社権現を祀り豊原寺を建立したと「白山豊原寺縁起」に記載されている。

100年後の天長年間には昌龍和尚が衰微した豊原寺を復興した。その後、越前の豪族であった藤原利仁は豊原権現に帰依して多くの土地を寄進し、その子孫で越前押領使藤原以成は5社の霊廟その他500余坊を建立し荘園を寄進した。「朝倉始末記」によると、藤原衆徒は越前で最も勢力のある寺院に成長し、平泉寺と共に越前僧兵として多くの戦功をたてて活躍した様子が書かれている。

天正3年(1575)には一向一揆が豊原寺を本拠地としたため織田信長によって焼き払われ、焦土と化した。その後、信長は柴田勝家の甥で柴田勝豊に4万石を与え、豊原に山城を築城した。勝豊は豊原の地83石を与え坊頭として東得坊、西得坊を建て、伽藍を整備し、豊原寺を再興した。

天正4年(1576)には、この山城を現在の平地城の丸岡城に移築した。豊原に残っていた寺院の多くも、これに従い、住民と共に丸岡街に移住した。その後、豊原寺は福井藩主や丸岡藩主の支援もあり、越前国33番札所となり、伽藍の整備も続き、白山信仰の霊地として繁栄していた。

しかし、明治2年(1869)に華蔵院焼失し、更に神仏分離令より豊原寺は次第に廃墟化して、住民も次第に下山し、過疎化が進み、昭和38年(1963)の豪雪以降、ついに廃村となった。平成11年(1999)有志により、豊原寺史跡保存会が平成19年(2007)には「のうねの郷づくり推進協議会」が結成され、史跡保存活動が開始されている。

(豊原史跡保存会10周年記念誌より引用)

豊原六地蔵

昌龍和尚座像

長崎城跡

南北朝時代~朝倉時代にかけて称念寺は陣所となり、よく戦乱に巻き込まれた。 「大平記」には建武4年(1337)「細屋右馬助を大将として、その勢力3000余騎越前国へ攻め入り 長崎・河合・川口3箇城を構えて漸々に府へぞ責寄ける」とあり、南北朝時代には城が存在し、南朝方の重要な拠点であった。その縁で新田義貞公の墓所となった。「大乗院寺社雑事記」によれば、斯波義良・甲斐八郎が越前に侵入して、文明5年(1473)には称念寺は朝倉氏の守備城となった。称念寺は金津の東山へ寺ごと避難移転している。文明12年(1480)7月には長崎城、金津城、兵庫城、新庄城等を攻め落とされている。その反撃に転じた朝倉勢は翌年13年9月に「長崎之道場」に出陣して大勝利を収め、斯波・甲斐方を越前から追放している。天正2年(1574)朝倉氏滅亡後、一向一揆が起った時長崎城はその陣所となった。

この頃の地籍図では、現在の称念寺の境内を含めたその北側の「字願成寺」あたりに、その規模東西約110m×南北約140m 南に突出した五角形をしていた。堀跡は西側を除き三方に幅約10mの水田となって残り、南側には土塁跡が幅6~7mの藪となってL字状に残っている。また、北と西に「字西門」「字北門」の字名が残っている。南側には「字古屋鋪」がある。

(日本城郭大系より)

天正年間頃の地籍図複製

みどころポイント

大正末期頃の撮影
称念寺全景(南側)

平成20年9月撮影
称念寺全景(南側)

黒坂備中守館跡(舟寄館跡、舟寄城跡とも云う) 坂井市指定史跡

文明13年(1481)頃、越前を支配していた朝倉氏は舟寄にその守備城を築いた。城主は朝倉氏家臣の黒坂備中守景久と伝えられている。天文21年(1552)一向一揆を攻撃するために宗滴を総大将として加賀に討ち入った時、堀江中務丞景忠麾下に黒坂解由左衛門尉景久の名が見え、その戦いぶりの詳述が文献に出ている。元亀元年(1570)越前に侵入してきた織田信長軍を迎え撃つために、黒坂景久は朝倉勢の一支隊として竹田風谷方面の警護に進発している。景久は翌年2年7月に戦死し、3人の息子があとを継いだ。朝倉氏滅亡後信長に従ったが、天正2年(1574)越前の一向一揆に攻められ、3兄弟とも討死した。

舟寄館跡は現在日東シンコー(株)の会社敷地内にある。明治9年(1876)頃の地籍図によると「字舘」に東西約110m×南北約80mの畑地の東と南に幅約10mの土塁跡が残り、堀跡らしき水田がまわりを囲んでいる。舘の西側に「舘ノ前」東側に「舘ノ後」があるので、舘は西に向いていたと考える。舘は500m西を通る旧北陸道に面していたであろう。舘の南東には「東古町」「西古町」「法華坊」などの字名が残っている。

(日本城郭大系より)

明治9年頃の地籍図複製

みどころポイント

日東シンコ−KKの敷地内にある黒坂備中守景久の館跡