豊原寺の歴史
丸岡の市街地より東方約4km山麓の谷間一帯に豊原寺跡がある。この豊原寺は大宝2年(702)に泰澄大師によって開かれ、大師自らが11面観音を刻み、豊原八社権現を祀り豊原寺を建立したと「白山豊原寺縁起」に記載されている。
100年後の天長年間には昌龍和尚が衰微した豊原寺を復興した。その後、越前の豪族であった藤原利仁は豊原権現に帰依して多くの土地を寄進し、その子孫で越前押領使藤原以成は5社の霊廟その他500余坊を建立し荘園を寄進した。「朝倉始末記」によると、藤原衆徒は越前で最も勢力のある寺院に成長し、平泉寺と共に越前僧兵として多くの戦功をたてて活躍した様子が書かれている。
天正3年(1575)には一向一揆が豊原寺を本拠地としたため織田信長によって焼き払われ、焦土と化した。その後、信長は柴田勝家の甥で柴田勝豊に4万石を与え、豊原に山城を築城した。勝豊は豊原の地83石を与え坊頭として東得坊、西得坊を建て、伽藍を整備し、豊原寺を再興した。
天正4年(1576)には、この山城を現在の平地城の丸岡城に移築した。豊原に残っていた寺院の多くも、これに従い、住民と共に丸岡街に移住した。その後、豊原寺は福井藩主や丸岡藩主の支援もあり、越前国33番札所となり、伽藍の整備も続き、白山信仰の霊地として繁栄していた。
しかし、明治2年(1869)に華蔵院焼失し、更に神仏分離令より豊原寺は次第に廃墟化して、住民も次第に下山し、過疎化が進み、昭和38年(1963)の豪雪以降、ついに廃村となった。平成11年(1999)有志により、豊原寺史跡保存会が平成19年(2007)には「のうねの郷づくり推進協議会」が結成され、史跡保存活動が開始されている。
(豊原史跡保存会10周年記念誌より引用)